なまけもの活動日記

ゲームや音楽、サブカルチャーがすき。

哲学してみる

割と楽しみにしていた哲学の授業がやってきました。商学部に入って、こんな風に哲学などに触れられるようになるとは思ってなかったので、かなりうれしい。難しいけれど、他の人の意見などをみたりしながら頑張ってみたいです。

 

A悪意は人を鍛え、かつひとを滅ぼす

がーっとチームで読んでいって、最初に思ったことは、かなり筆者の考えに納得・同意できるな、と思いました。もちろん、難しくて納得いかない・わからない部分もありますが、今回自分が引いた線は「メウロコ」「スゴドウ」ばかりです。チーム内では私が「スゴドウ」にした部分に「ナツイカ」にした人とかもいて、私自身が文章が読めたうえで理解して同意しているのか、読めてなくて理解しきれてないままそういうことだと思い込んでしまっているのか?っていう疑問・問題点も出てきました。なんとなく本などを読むときにそれは違うとか批判的に読むなどの能力が低い気がしているので、文章ちゃんと読めてないんじゃない??っていうのは全編にわたって思いながら読んでいて哲学わからん…。って感じです。

 ざっと読んだ感じ、

・広い意味での攻撃性=悪意を一掃するのを目標にしてはならない

・悪意の中にこそ豊かさがあるのだから、自他の心とうまく付き合うべき

って解釈(最後にまとめてあるけど)はとても個人的には同意できます。

 

ここからは細かく気になったところとか。

「動機によって正しい行為と誤った行為を区別することは有効ではないだろう」

という部分は私はなるほど、と思いました。個人的には動機は推し測られるべきだとは思うんですが、例えば他人に傷を負わしたときただ、相手が憎いから、相手に身内が傷つけられたからでも動機がどうであれ結局はやってしまったことには変わりないので。100%同意ではないけれどそういう考え方も納得できるな、と。

「「文化」は自他を攻撃し破壊し、他人を排除し抹殺し、他人に嘘をつき騙したぶらかし利用するところに、ある集団を尊敬し別の集団を軽蔑するところに成立するのである」

言われてみればな、と思います。これより後の味方とか絆とかの部分も併せてですが、悪意による差別がないとこれらが成立しないのは納得できます。でも、個々の別の集団を軽蔑とかは悪意というか相対的にそう見てしまうというか無意識に?みたいな感じもあるんではないかと思うんですけど、敵(悪意をこちらに向けてくる存在?)がいるからこその絆みたいなのは戦争みたいなことから、部活みたいなことまで言えるのかなって。この解釈があってるかわからないけど。

 これらを考えていくと私たちの営みって確かに悪意がなければ文化とか発展しなかったわけで。でも、その悪意による差別は良いものとは言い難いから(必要ではあるけれど)それらをどう対処するかが大事というのは分かる気がします。人々が団結するためには共通の仮想敵が必要とかっていうのも聞いたことあるし。必ずしもすべてをなくしていいってわけではないだろうなと思います。

B快・不快を統制する社会の恐ろしさ・差別感情 

「不快に感じられたくさえない」や「人為的にどうにかしてはならない」というところは納得できるかなあ、と思います。だからこそ、

・差別論は個人の快・不快には立ち入らない

・だが、現実には差別意識は個人の快・不快の延長上に存在する 

が大事であるけど難しい。だけどある組織において、の例は憎むというのはないことはないだろうけど個人的にかなり極端というかどうだろうと思いました。そこまで思うのかな。あり得ることではあると思うんですけど。

「差別に基づいた感情、ある社会的劣位グループの構成員であるがゆえに一律に不快に思うという感情のみを差別感情とする」

という部分はなるほどと思いました。境界設定は確かに難しいけれどこれらは現代でも確かにある、ものもののことに言えるのではないかと思ったからです。

「差別に対して社会統制が厳しくなればなるほど、こうしたいわば内的統制としての感情統制もまた厳しくなる」

というのも納得です。確かにそうで、でも差別にたいして社会統制はある程度必要だとは思うけど感情統制のことを考えたらどんなふうにしたらいいんだろう。だからこそ悪意の制御が必要なんだろうかな。

ただ、不快を表だししないように賢くふるまっているだとかの部分は少し引っかかりました。それに関して社会的に葬り去られるからそうする、というのはどれだけの人がそこまで考えているんだろう、って。きっと文章にあるように考える人もいるけどだからしないというより暗黙の前提であるんだろうけど無意識じゃないのかなと思います。駄目っていう刷り込みというか。

 

C帰属意識アイデンティティ

Cは納得できる部分も多く、たぶんそうなんだけどなんだか個人的に引っかかるというかもにょる感じがします。言語化できない…。特に気になったのが筆者の地元への帰属意識について書いてある部分です。故郷に何の愛着を感じない人がいてもいいと思うけれど、相対的に見れる人が愛着もない人を断じて「許しては」くれないというのはどういうことだろうか?これがわからないのは、わたしがなんだかんだ故郷が好きである程度の人がそう思っていると考えるからだろうか。子の考えこそが鈍感な善人??

家族の愛に包まれることは、すべての幸福のうち最大の幸福と信じ切っている」

個人的にはこれが最大の幸福だとは思ってないんですけど、その後の正統派であると確認しあっているの部分は確かにそうかもと思えちゃって(実際にそんな会話するし)確かに家族とうまくいってないと聞いたりするとかわいそうって思ちゃうんだけれど(大変・苦労してるんだなっておもう、というか他に形容できる言葉を私が持ってない)実際私はきづいてないだけでそう思ってしまっているのかなあ、って。だからこそ「あなたはすでに(潜在的)加害者なのである」という言葉にめちゃくちゃ納得したんですがこの言葉が重たいなと。あたりまえだけど、一人ひとりの「普通」が違うことって知識としてあったはずなんです、自分の中では。よく題材になることだし、日常でも例えば福岡に来たときとかにもあったのに、こんなにこの一文が重たいと思ったのは意識できてなくて自己批判精神が自分になかったことの表れなのかなと思ってしんどい。だからこそコミュニティの中で帰属意識があるからこそ差別感情が悪意なしに生まれるということにすごく同意しました。

 

D良いことを目指す態度

「こうした価値を教えこまれた子供が、これらを目指していない者、実現していないものを蔑むようになる」

私はとても納得できるなあ、と思いました。この後に書かれているように見下してはならないと教えることは難しいし、絶対にこんな風に考えない人もいると思います。けれど、私自身そう思ってしまう場面って今までたくさんありました。(私が勉強できたりするいい子であったわけではありませんが)私自身人格者ではないっていう部分もありますが、決められたルールを何回も破る人を見たときとかはどうしようもなく差別してしまった覚えがあったり、勉強があまり得意でない人をあざ笑うような場目に出くわしたこともあって、確かにこれらは差別であるといわれればそうであるし、今の自分が最後の問いかけである「成績も悪く、素行も悪く、怠け者であるB君をそれでも「人間として」尊敬しなさいという教師の言葉は、果たしてどのくらい子供たちの心に訴えうるのか」ということをいわれても難しいなと思ってしまった時点で差別が知らず知らず身についているなと痛感しました。

 

めちゃくちゃ難しく、なんだか個人的には納得できる部分が多い文章だった上に心当たりありすぎて自分が悪意のある人間で差別を無意識にしてた可能性が高くてめちゃくちゃなんというか体力気力持っていかれた感があります。特に後半…。哲学難しいけれど、自分に欠落してた部分が学べたり、自分自身を見直せたりしたので興味深いです。もう少し考えながらみんなのブログ見てみようと思います。