哲学してみる②
オンライン授業だとただでさえ切り替えが下手なので、授業とそれ以外の切り替えがうまくいってなくてなあなあ感があるなあと思う今日この頃。さて、今回も哲学にふれていきます。
まずは須永先生から哲学対話について教えていただきました。
哲学対話とは?
☆哲学という営み
知識→親和性があるものを吸収、バッティングするものは消去
哲学=既知の知識をゆさぶる
☆哲学的な「問い」
たいていの人にとっては「あたり前」の土台が疑わしく見えたときに生まれる(躓き、立ち止まった時など)
→つまづいていない人にはリアルにみえない
☆哲学のメリット=「問い」を立てるスキルの向上
問いを立てるスキルとは?
・簡単に分かったと飲み込まないスキル(否定的受容力)
・なじみのあるものを異化
☆「問い」をたてることの重要性
問いは思考力を支える「背骨」
問いは鎧を解体するときのカギ
魅力的な問いは人々を引き寄せる
☆哲学対話のルール
・議論でも会話でもない「対話」
・「答えを出さずに問い続けること」が大事なのではない
・自分の言葉でゆっくりはなす
・「もう一度おねがいします」は言ってよい
・結論を急がないこと
これらを聞いて、私には前回ブログにも書いたけど、簡単に分かったと飲み込まないスキル(否定的受容力)が必要だなあとおもっているからこそ、哲学的な問いは立てないといけない、必要だと思いました。また、ちょっと驚いたのはルールの中にある「答えを出さずに問い続けること」が大事なのではないということです。なんとなくそういうイメージが哲学にあったので、へえ、と思いました。議論でもないっていうのはちょっと難しそう。そこを割と気にしながら今回はグループで話しました。
今回のお題は
1. なぜわれわれは「あなたは差別している」と言われたくないのか
2. 差別をしたくない場合、どうすればいいか?あるいはそもそも、差別はしてしまっても仕方ないものなのか(だとしたら、なぜ世の中ではかくも「差別はいけない」と言われているのか)
の二点です。難しい…
私たちが考えたときのメモはこんな感じ。
まず、1の問題から考えていきました。テキストにも乗ってたけれど、やっぱり不快・嫌いっていわれたくないからだよねってことから、自分を悪者だと思われたくないよねって意見が出ました。自分が大事だよって感情が強い、みたいな。そこから、自分を守るためだよね、って話に。だけど、そもそも差別ってどこからだろう、となりました。テキスト中では定義の提案?がしてあるけれど差別って何だろう…ここでちょっと詰まった感じです。例がよくないかもだけどいじめとかみたいに相手がそう思ったらそうなんだろうかと思ったり。深いと感じて行動に移してしまった(言葉に出す、手足がですなど)なのかなあと落ち着きましたがそれにしたってラインが難しい。
そこから時間もないしで2へ。そこでは私たちは差別をしないということは難しいんじゃないかな、と思いました。それは、相手を不快に思わないなどというのはむずかしいから。心に秘めたり表に出さないようにするしかないよねってなりました。じゃあなんでいけないって言われちゃうの?ってなると自分自身の命や生き方に関わってくるというのが上がりました。そして、そもそもとして小さなころ、そういう差別を無意識にしちゃいそうなころから大人たちにそう教えられてくるかではないかと。でもここのいけない理由の自分自身の命とかもだけど差別の規模感(クラスとか世界とか?)でも変わりそうじゃない?みたいな感じでまた差別ってなんだ…?に戻りました。時間がいくらあっても足りない感じがするなあ。
授業後に個人的には、自分のうちにあるまでは差別ではないとしても(行動に移さなくても)無意識にでも差別に当たることを思っちゃったら態度に知らずしらずでるものだからこれも差別なのか…??ともんもんとしたりしています。難しい。
そんなこんなで割と少人数ではなしていくとちょっとした視点や受け止め方の違いがあって難しいけど楽しいなあ、と思います。始終難しい、むずかしい、言ってましたがなかなかタブーというか、差別とかって内容はこんな機会でもなければ人と素直にはなせないからすごく貴重な体験かもなあ、って思ったり。春休みに読んだ「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の内容も思い出しながら私たちに必要なお題なんだろうなとも。もっと時間かけて、他の人の意見も聞いてみたいなあともおもいました。ブログよも。